2011-03-01 心筋梗塞の顛末①
_ 2011年の春
2011年の春は、僕にとって大変な時期だった。
3月26日にmano.catドメインを取得したので、
遡ってブログの形でその顛末を記録しておくことにする。
3月下旬までの記事は、
別に書いていた手記からの転記で、
リアルタイムで進行しているものではない。
_ 三里との交際
2010年の6月ごろから、三里との交際が始まっていた。
2010年の3月、新入社員(前年秋に中途入社)だった彼女を
僕が映画(アバター)に誘ったのがきっかけだが、
4月末の連休前には一度、交際を断られている。
主として年齢差を気にして、だった。
ところがその後、彼女のほうから積極的にアプローチされ、
6月中旬に彼女から交際宣言。
彼女は夏には「いつ結婚する?」「家族にはいつ会う?」などと
のたまうようになった。
_ 狭心症の自覚
2010年の晩秋ごろから、
激しい運動時に胸が締め付けられるように痛むことがあった。
が、まさか心臓に問題があるとは思っていなかった。
「齢のせいで心肺能力が落ちた」と誤認識し、
あれこれトレーニングをやり始めたりしていた。
胸が焼けるように痛み、数分休むと痛みが消える。
それが労作性狭心症の典型的な症状だったのだが、
まったく気に留めずにいた。
_ 狭心症悪化
年末には、少し動いただけで発症するようになっていた。
東名高速を運転する車の中で苦しくなったり、
研修時に教壇でうずくまったりしていた。
正月に三里と行った下呂温泉でも、
坂や階段を昇るだけでしんどい場面があり、
さすがに「ちょっとまずいかな」とは思っていた。
その頃には、ネットで症状を調べたりして
「心臓かもしれない」と疑ってはいたが、
それでも、
「煙草か風邪のせいで肺がちょっと荒れてるのかもしれないし、
意外と肋間神経痛かなんかで、時間が解決するかも」とか、
希望的観測で自分を誤魔化していた。
_ 心筋梗塞発症
2011年2月19日(土)の早朝6時ごろ、
水を飲みに起きたあと、胸に違和感を感じた。
何ともいえない苦しさが、胸全体から下顎まで広がる。
息が普通にできず、身動きもあまりできない。
酷い胸焼けとも感じられ、トイレで吐こうともした。
この胸苦しさは、ヤバイ感じだった。
ひょっとすると心臓が停まってんじゃないかと疑って、
脈を取ってみたりした。弱い気もしたが、動いていた。
横で寝ていた三里を起こそうかどうか迷ったが、
救急車を呼ぶほどではないと判断、起こさなかった。
心臓の状態を疑っていたので、血流を確保するつもりで、
アスピリンを噛み砕いて水で飲んでみたりもした。
(アスピリンに血栓予防の効果があることは知っていた。)
30分ほどで少し楽になったので寝なおして、
そのあと普通に起床し、出勤した。
しかし勤務中も、何ともいえない苦しさが続き、
ほぼ座ったまま、あまり動けなかった。
冗談で「心臓がダメかもしれない」と笑っていた。
ネットでクリニックを探したが、土曜だったので、
休み明け(月曜)に受診することに。
翌日の日曜日は、苦しさも和らぎ、まあ普通に過ごした。
_ 高仲循環器クリニック
2月21日(月)。
午前中に高仲クリニックに電話して予約を取り、
15時30分に受診。
病院に行くこと自体が何十年ぶりで、緊張気味だった。
だけど、綺麗な建物だし、落ち着いた雰囲気。
前日からは、ほぼなんともなかったので、
煙草をやめろとか塩分や脂肪を減らせとか言われるんだろうな、
と、軽い心構えでいたら、
心電図を取った時点で「真野さん、心筋梗塞を発症してますよ」と。
「昨日か今日、死にそうに胸が苦しくならなかった?」
土曜日早朝の、あれがそうだったのだ。うへぇ。
そのあと、右前腕から造影剤を入れてCTスキャンで状態を確認。
高仲クリニックには全国でもまだ珍しい、
64層マルチスキャンのCTがあって、
心電図で判断して拍動と同期しながら撮影できるのだが、
僕の停まりかけた心臓ではうまく同期できず、
かなり時間がかかった。
撮影が終わって再び先生と向かい合ったのは18時すぎ。
_ 症状
左冠動脈前下行枝の途中に、酷い狭窄が見つかった。
幸い、完全に血流が停まってしまったわけではなく、
停まりかけては痙攣を繰り返す状態だったらしい。
まる二日半、私の心臓は瀕死の悲鳴を上げ続けていたのだ。
通常、心筋梗塞は発症60分以内に20%が死亡、
48時間以内に50%が死亡するという。
また、発症から2時間以内に適切な処置が行われない場合、
死を免れても深刻な後遺症(心筋の石灰化等)が。
私の心臓は、発症後60時間もほっとかれた。
_ 医療センターへ
そのまま医療センターに行って、
緊急手術を受けることを勧められた。
高仲先生には「仕事があるから」と反対したが、
「命が危ないって時に言うことじゃない」と諭された。
そんなにヤバイ状態なのか、とそこで初めて認識。
とりあえず三里に電話、取締役にメールで連絡して、
19時ごろ、タクシーで医療センターに。
三里は、自分の車で付いて来た。
_ 救急医療の現場
自分の脚で歩いて受付に行ったのに、
あっという間に寝かされて救急救命患者の扱い。
「ワン、ツー、スリー」で担架からベッドに移される、あれ。
鼻には酸素パイプ、両腕に針が刺され、胸には電極が。
バタバタと説明を受けながら手術室に運び込まれた。
2011-03-02 心筋梗塞の顛末②
_ 手術直前
2/21(月)19時 手術直前のベッド。
各種ケーブルに縛り付けられた僕は、すっかり「患者」の様相。
心配させたくなかったので母さんや佳子には知らせず、
三里に「家族」として付き添ってもらうことに。
事前に手術のリスクなど聞かされ、
三里はけっこう凹んだらしい。(後から知った)
曰く、カテーテルが血管を破ることがある、
血流を一時的に停めるので、
心臓にダメージを残す可能性もある、
造影剤等の投薬で予期せぬ副作用がある、
絶対に安全な手術とはいえない、等々。
この時点の患者本人は別段苦しんでいるわけでもないので
実感が湧かず、興味津々、周囲の状況を観察していた。
インターンらしい若い白衣がたくさん取り巻いていて、
何をするでもなく、処置を受けるボクを見ている。
メモでも取れば?
_ 変な救急患者
歩いて受付に来た心筋梗塞発症の救急患者、
珍しいケースなんだと思った。
心筋梗塞って、救急車で運び込まれるんだよね。
脂汗をかき、死の恐怖に怯えながら。
「救急救命病棟って、どこですか」って
受付に聞く救急患者はいないんだ。
_ 医療ドラマのシーン
仰向けのベッドで廊下を手術室へ運ばれながら、
おそらくこのシチュエーションでなければ
経験できない風景を目にした。
流れ去る天井と、心配そうに見下ろしながら
付いてくる三里の顔。
映画やドラマのシーンをあれこれ連想する。
途中、三里に職場への連絡をいくつか頼む。
この時点では、せいぜい三、四日の入院のつもりだった。
高仲先生がそう言ってたから。
すぐに手術を受けさせるための方便だったらしい。
二週間もかかったじゃん。
2011-03-03 心筋梗塞の顛末③
_ 痛み
手術中は、手首だけの部分麻酔だった。
正直、辛かった。
鋭い痛みはないが、鈍痛というか、右前腕がずーんと。
「痛くないですか」と聞かれ、「痛いです」と答えると、
部分麻酔を追加されるものの、たいして変わらず。
血管の中を何かが通っていく感覚も、
何ともいえず気持ち悪い。
_ 手術中①
2時間ずっと同じ姿勢なので、
肩や首がこわばり、だんだん痛くなってくる。
時折、造影剤の注入であちこち熱くなるのは面白い経験だが、
とにかく2時間の手術はずっと苦痛の連続だった。
バルーンで血管を拡張するときは、
当然ながら血流が停められるわけだから、
人工的に心筋梗塞を起こしている状態。
地獄の苦しみ。
_ 手術中②
事前に術式の説明は受けているので、
周囲の動きや音で、何をしているかの想像がつく。
タタタタッタタタタッというけたたましい音が、
バルーンを膨らませるコンプレッサーなんだろうな、とか。
途中、多分狭窄部の拡張がうまく行って戻した瞬間だろうけど、
突然、胸がスーッと軽くなった感覚があった。
あとで、「血流が復活した瞬間、心臓がドクッと動いた」と
担当の小林先生から話があった。
2011-03-04 心筋梗塞の顛末④
_ 手術直後
2/21(月)深夜。手術直後、救急救命室のベッド。
まったく身動きが取れない。
三里が来てくれたが、患者は手術前より元気がない状態。
痛めつけられた感じで、疲れきってしまった。
なんだか、本当に死にそうな気がしていた。
_ ポンコツ
「ボク、ポンコツだった」と漏らす。
ずっと、自分の身体には自信があった。
愛車のPorsche928同様、年式は古いが造りは頑丈で優秀、
細かいパーツにガタは来ても基本性能は新車に負けないぜ、
という気概でやってたのに、
エンジンに相当する心臓がダメだったと判明したので。
_ 結婚
「結婚は待って。お別れも考える必要が」とも。
齢の差のことはお互い了解していたにしても、
心臓に問題があってどうなるかわからないのでは、
一緒に暮らしていく彼女の負担が大きいと考えて。
介助のために結婚、という感じになるのが嫌だった。
三里には「今は治療に専念して」と諭された。
_ 母さんに
実は、「近いうちに結婚するかもしれない」と、
年末に母さんに電話した際、伝えてあった。
昨年の秋ごろから、
僕が実家にろくに帰らないことを三里に叱られていて、
「結婚して、お母さんを呼んで、一緒に暮らそうよ」と
言ってくれていた。
そう遠くない将来、そうするつもりだった。
_ スケジュール
予定ではプロポーズは3月1日、三里の誕生日。
先方の両親に合い、3月末には会社が休みになるから、
そのときに鴨島に帰って母さんに引き合わせる。
そういうスケジュール感だったんだが・・・。
_ 一ヶ月の猶予期間
「誕生日を一ヶ月遅らせて」とお願い。
その間にあれこれ考え直すことに。
とにかく、この心臓がどうなるかが問題だ。
日常生活に支障を来たすようなら、
本当に結婚は諦めて別れるつもりだった。
2011-03-05 心筋梗塞の顛末⑤
_ 私はミイラ
手術後、まる二日間はまるでミイラ。
心臓への負担を減らすため、ほとんど動くことが許されない。
ベッド上で背中を起こす許可がでたのが三日目、
リハビリを進めてトイレまで歩けたのは五日目。
なんとそれまで、大便は我慢していた。
実は、小便できたのも二日目になって初めて。
横になったままで、尿瓶に尿を出すことができなかった。
頭はOKして出そうとするが、体が従わない。
小便できないことが、あんなに辛いものとは思わなかった。
_ ダメージは小さい
歩けるようになるまでの五日間、酷い頭痛に悩まされた。
点滴で打たれている血管拡張の薬のせいか、
あるいは自由に動けないせいか。
首や肩がガチガチに凝っていて、一日中割れるような頭痛。
だけど、肝心の心臓は予後順調だった。
心臓へのダメージは最小限(先端部:心尖だけ)で済んだようで、
後遺症はほとんど気にしなくていいだろう、とのこと。
壊死が進んでしまった場合、心筋は再生しない組織なので、
心室が徐々に拡張しながら石灰化していくそうだ。
おそろしや。
_ 病棟はいい環境じゃない
一般病棟に空きがなく、ずっと救急救命病棟で過ごす。
声がでかくて困る話好きな爺さんがいたり、
病気で性格の捻じ曲がった嫌な奴がいたりと
けっしていい環境とは思えなかった。
ただ、看護士さんはみんな前向きで元気で明るくて、
かつ、綺麗なお嬢さんばかりだったのが救い。
2011-03-07 心筋梗塞の顛末⑥
_ 退屈
すると、退屈で退屈でしかたがない。
救命病棟の面会時間は午前中1時間だけだから
三里は毎日来てくれるけどすぐ帰っちゃうし。
本を読むのはいいが、あっという間に読み終わってしまう。
PCをWiMaxでネットに接続できて
ネット越しの仕事も可能にはなったが、
薬のせいか、集中力が持続しない。
_ 不満
不満はたくさんあった。
居場所も姿勢も限られているので、あちこち痛くなる。
特に、肩は酷く凝った状態が続いていて辛い。
ずっと風呂に入れないので体が臭うような気がするが、
蒸しタオルで拭く以上のことは許されていない。
朝、夜明けとともに起床するのはかまわないが、
外気を吸えるわけではないので清々しくもない。
早起きしても、一日中、何もすることがない。
昼間、することがなくてウトウトするので、
消灯後はずっと眠れない。
救命病棟なのに、患者同士の話し声がやたらとうるさい。
_ 看護士さん助けて
三度の食事が楽しみなイベントになるが、
メニューは哀しくなるほど簡素。
心電図を取りに来る看護士さんが誰なのかで、
半日の気分が変わったりするくらい、
入院患者は退屈してるんです。
待遇を少し考えてほしい。
2011-03-08 心筋梗塞の顛末⑦
_ 痩せた
入院二週間で、体重は6kgほど減。
病院食は不味くて少なくて哀しかった。
塩分や油を控えるのは仕方ないにしても、
せめて食材に凝って素材の美味さを味わわせるくらいの
工夫をしてもらいたいものだ。
_ 提案
二週間の後半、十日ほどはヒマでしょうがなかったので、
患者の病状別にカルチャースクールのサービスをやったら
けっこう喜ばれるんじゃないか、とか思った。
PCスクールとか、HowTo快眠とか、WhatIsお薬とか。
_ リハビリ
15mを5分かけて歩くことから始まって、
200mを4分かけて歩くところまでリハビリ。
普通に歩くより少し遅めぐらいの感覚。
もっと速く長く歩ける気もするが、
最終日に許可が出たシャワーでは、
頻脈が出そうになって慌てた。
無理は禁物。
_ 退院
3月8日(火)、正午に退院。
三里の車で送ってもらい、
途中「風変里家」で二週間ぶりの珈琲を堪能。
「ゆっくり歩く」を心がけて、自宅へ戻る。
会社には、あと二週間ほどリハビリ期間をもらうと連絡。
「無理をしないように」と。まぁ、そうだよな。
2011-03-11 東日本が大変なことに
_ リハビリ
退院後は、毎日少しずつ歩く程度の、
緩やかなリハビリを心がけていた。
ゆっくりペースアップすれば
少々汗ばむくらいの運動でも問題ないのだが、
気温の急低下には妙に弱い。
息が荒れ、心臓がバクバクする。
まだ夜は寒いので要注意。
_ 東日本大震災
午後、何気なくテレビをつけたら。
東北地方が大変なことに。
津波の生々しい映像を観ながら、
これは未曾有の大地震だと感じる。
死者は数万人になると直感。
町が飲み込まれてるんだもの。
2011-03-12 母さんから電話
_ 保険のこと
満期になるボク名義の保険があって、
100万円おりるとか。
「ほしいで?」というから、
そりゃまぁ、もらえるならもらう、と。
「ほな手続きしとくわ」と言って切れる。
なんだか、よくわからない。
相変わらず他人のことばかり気にして、せっかちな母。
2011-03-14 母さんから再び電話
_ 実印が必要とか
夜、再び母さんから電話があった。
一昨日の電話で話した保険が、
僕が僕自身にかけた形式になっている。
本人の実印が必要になる。
書類を取り寄せるのに一週間くらいかかりそうだ。
手に入ったら送るから、
あとは自分で手続きしろ、と。
_ はーい、と返事して切った。
_ ボクは役立たずだ
テレビでは、連日悲惨な報道が続く。
各地の惨状が明らかになり、
居ても立ってもいられないような焦燥感に苛まれる。
自分に何かできないか考えるが、
そもそも自分の命が危ない状況であることを
あらためて思い出す。
_ 僕は、役立たずだ。
2011-03-17 訃報
_ わからない
頭の中が真っ白になった。
病院と警察、妹や伯父への連絡をお願いし
すぐに行くと伝えて電話を切ったが、
何をどうすればいいのか、考えがまとまらない。
のろのろと動き、
荷造りして出かける準備が整ったのは昼前だった。
_ 鴨島へ
郷里の鴨島へ向かう新幹線の中でも、
頭の中は同じところをグルグル回るばかり。
現実感がなく、行動している自分が他人のよう。
初めて岡山経由で四国へ渡った。
子どもの頃から何度も夢に出てきた、
「見知らぬ駅」の風景が高松駅だったことを知り、驚く。
_ 到着
19時ごろ、鴨島駅に到着。
俊ちゃんの奥さん、君枝さんが迎えに来てくれていた。
母の遺体は三倉屋会館に移され、
親類は既にそちらに集まっているとのこと。
通夜の手配は、伯父たちが済ませてくれていた。
_ ごめんなさい
伯母が「尚己が来たら、欣子さんが笑顔になった」と。
叔父たちは口々に「欣子は尚己の自慢ばかりしていた」と。
そういう話を聞いて、
無愛想だった自分の不甲斐なさ申し訳なさが思い返され、
また何度も泣く。
夜はお棺のそばで佳子と哲暢叔父の三人で寝たが、
抜け出してロビーで泣いた。
_ 脳動脈瘤
母は、
ヨガの集まりから友人と一緒に22時過ぎに帰宅し、
そのまま店先で他界したらしい。
このところ夜の冷え込みが酷かったので、
それが原因だろうと伯父伯母が話していた。
警察は死因を心不全としたそうだが、
心不全は死因を特定できないときの言い回し。
昨年末から脳動脈瘤が見つかったことを話していたので、
その破裂だろう。
2011-03-18 葬儀
_ 慈雲院春曉妙欣大姉
14時から葬儀。
午前中は、町を歩いたり実家に戻って部屋を見たりして過ごす。
11時ごろから、あれこれと準備が始まり、
あまり悲しんでいる余裕もないような状況。
弔電の順番なんかどうでもいいと思うが、
そうもいかない。
お坊さんから、母の戒名(法名)が決まったと教わる。
慈雲院春曉妙欣大姉。
立派で美しいが、
それが母を意味するのだとは、心が受け付けない。
受付が始まり、予定を大きく上回る百数十名の参列者。
母が人気者だったのを思い知る。
受付や香典の整理は、俊ちゃんが中心になって、
進めてくれた。感謝。
_ 葬儀
葬儀は静かに進む。
三倉屋の人が細かく指示を出してくれるので、
僕は何も考えず従っているだけ。
読経の声を聞いているうちに、
また涙が溢れてくる。
喪主として毅然としていようと思っていたが、
こぼれる涙を止める術はなかった。
最後の挨拶では、
「母は、自分のことはいつも後回しで、他人のことばかり心配し、
せっかちで、ポジティブで、明るい人だった。
月末には嫁を連れて来て、一緒に暮らそうと話すつもりだった。
無愛想で親不孝な息子で申し訳なかったが、
もう少しだけ、待っていてほしかった。
慌てて逝ってしまったのは母らしいが、
間に合わなかったことが無念でならない。」
と話した。
後で、叔父たちに「いい話だった」と褒められた。
_ 斎場へ
斎場へは、僕が位牌、妹が遺影を持つ。
伯父が最年長者として式を仕切るつもりだったのか、
しきりに挨拶をしたがっていたので、
斎場へ向かうバスの前での挨拶は任せることにした。
僕は先にバスに乗ったので、何を話したのか知らない。
_ 火葬炉
斎場。いくつかの手続きの後、火葬炉に入っていくお棺。
現実感がない。現実感がないが、涙が止まらない。
待っている間、叔父たちや従兄弟たちと話す。
他愛もない思い出話で笑ったりしながら、
誰もが時折目に涙を溜めて黙り込む。
母が、兄弟たちにもこんなに愛されていたのだと、
あらためて感じる。
_ お骨というモノ
お骨を拾う段になって、
頭が混乱する。
純然たる「モノ」になってしまった母。
説明を聞きながら骨を見て、
「あれが母さんの大腿骨、あれが肩の関節」という状況に、
どうしても馴染めない違和感があった。
靖久叔父が「食べさせてくれ」と名乗り出て、骨を齧る。
少し驚いたが、そういう風習を聞いたことがあるようにも思う。
途中、頭蓋骨の内側に褐色の汚れがあるのを見て、
担当者が「脳内に大量の出血があったようです」と説明。
やはり、脳溢血だった。母は苦しまずに逝ったのだ。
佳子と目を合わせ、少しほっとした。
独りっきりの寒い夜、母さんが苦しみながら死んだなんて、
考えたくなかった。
_ 母さんの部屋
夜、母さんの部屋、母さんの寝具で眠る。
小さく、寒く、暗く、居心地の悪い部屋。
短歌の草稿や携帯電話、
カレンダーの書き込みや走り書きのメモなどに囲まれて、
母さんが過ごした独りの夜を実感する。
さぞ寂しかっただろうと、あらためて泣いた。
何度も何度も泣いた。
もう、何もしてあげられなくなったことが悔しくて
本当に悔しくて仕方がなかった。
_ 母さん。母さん。ごめんな。ほんまに、ごめんな。
2011-03-19 遺言書
_ ごめんな
涙が止まらない。
佳子と二人で、しばらく何も話さずに泣いた。
母さん。
優しくなんてしてないよ。
もっともっと、してあげたいことがたくさんあったのに。
もう少しだけ、待っててほしかったよ。
ごめんな。
2011-03-26 mano.cat の準備
_ このブログ
三里が結婚を望むようになり、
心筋梗塞を発症し、
東日本が地震で大変なことになり、
そして突然の母さんの訃報。
僕にとって2011年の春は大変な時期だった。
振り返り、顛末を記述することにした。
3月初日からのログは、
22日以降に書いていた手記から転記。
2011-03-30 二七忌
_ →神戸→鴨島
28日に浜松を発ち、その日は神戸で異人館など観光。
三里が、僕を元気付けようとしきりにはしゃぐ。
ありがとうね。
オークラに一泊して、翌朝早く鴨島へ。
車(928)で行ったので自由が利く点はいいが、
運転は疲れる。片道500kmだから。
実家で三里を佳子に引き合わせ、
形見分けの着物とか指輪とかを相談。
_ 伯父宅で法要
11時、伯父の家に集まり
三里を伯父伯母に紹介してから法要。
初めてお経を詠むが、
お坊さんから「詠まれた事がおありなんですね」と。
読経の調子が他の宗派の音に聞こえたそうだ。
いえ、初めてなんですが。
三里は
「祭壇側の目からだけ涙が出た。
お母さんに会えたのかなぁ。」とか言う。
本当に、そうであってほしい。
_ 帰りは大阪経由
午後、三人で市役所に行ったり食事をしたり。
夕方、鴨島を後にした。
大阪で美味しいものでも食べて帰ろうかと、
徳島へ向かう途中のインターネットカフェで
三里が大阪のホテルを予約したが、
これが盛り場の真っ只中で場所がわからず、
人ごみの中をでかい車で右往左往。
やっと辿り着いたが駐車場がわからずまた右往左往。
あとで「私も知らないのに問い詰めた」と三里がむくれる。
だって、予約したのはきみだし、
ホテルに行って駐車場の場所を聞いてきたのもきみだし。
でもまあ、夜は仲直りしてから焼肉。
_ 帰る場所
三里は神戸を気に入ったようで、
「また連れてってね」と。
また、実家を処分する佳子との話を聞いていて、
「こんど帰ったときはホテルに泊まるの?」と。
いや、鴨島は「帰る」場所じゃなくなったんだよ。
母が住む家はもうないことを再認識。
_ 帰る場所は
母さん、僕が帰る場所は?
いつか、僕も母さんの傍に行けるんでしょうか。
もしそうなら、それまで待っていてください。
そんなに先の話じゃないだろうから、
それまでは、僕と佳子と三里を見守ってください。
_ 母さん。
_ とち [おーい、生きてるか。わしは変わりません。おばちゃんが乗っていた軽自動車。とりあえずウチの二台目として昨日車検しました..]