mano.cat Diary


2011-03-01 心筋梗塞の顛末①

_ 2011年の春

2011年の春は、僕にとって大変な時期だった。

3月26日にmano.catドメインを取得したので、

遡ってブログの形でその顛末を記録しておくことにする。

3月下旬までの記事は、

別に書いていた手記からの転記で、

リアルタイムで進行しているものではない。

_ 三里との交際

2010年の6月ごろから、三里との交際が始まっていた。

2010年の3月、新入社員(前年秋に中途入社)だった彼女を

僕が映画(アバター)に誘ったのがきっかけだが、

4月末の連休前には一度、交際を断られている。

主として年齢差を気にして、だった。

ところがその後、彼女のほうから積極的にアプローチされ、

6月中旬に彼女から交際宣言。

彼女は夏には「いつ結婚する?」「家族にはいつ会う?」などと

のたまうようになった。

_ 狭心症の自覚

2010年の晩秋ごろから、

激しい運動時に胸が締め付けられるように痛むことがあった。

が、まさか心臓に問題があるとは思っていなかった。

「齢のせいで心肺能力が落ちた」と誤認識し、

あれこれトレーニングをやり始めたりしていた。

胸が焼けるように痛み、数分休むと痛みが消える。

それが労作性狭心症の典型的な症状だったのだが、

まったく気に留めずにいた。

_ 狭心症悪化

年末には、少し動いただけで発症するようになっていた。

東名高速を運転する車の中で苦しくなったり、

研修時に教壇でうずくまったりしていた。

正月に三里と行った下呂温泉でも、

坂や階段を昇るだけでしんどい場面があり、

さすがに「ちょっとまずいかな」とは思っていた。

その頃には、ネットで症状を調べたりして

「心臓かもしれない」と疑ってはいたが、

それでも、

「煙草か風邪のせいで肺がちょっと荒れてるのかもしれないし、

意外と肋間神経痛かなんかで、時間が解決するかも」とか、

希望的観測で自分を誤魔化していた。

_ 心筋梗塞発症

2011年2月19日(土)の早朝6時ごろ、

水を飲みに起きたあと、胸に違和感を感じた。

何ともいえない苦しさが、胸全体から下顎まで広がる。

息が普通にできず、身動きもあまりできない。

酷い胸焼けとも感じられ、トイレで吐こうともした。

この胸苦しさは、ヤバイ感じだった。

ひょっとすると心臓が停まってんじゃないかと疑って、

脈を取ってみたりした。弱い気もしたが、動いていた。

横で寝ていた三里を起こそうかどうか迷ったが、

救急車を呼ぶほどではないと判断、起こさなかった。

心臓の状態を疑っていたので、血流を確保するつもりで、

アスピリンを噛み砕いて水で飲んでみたりもした。

(アスピリンに血栓予防の効果があることは知っていた。)

30分ほどで少し楽になったので寝なおして、

そのあと普通に起床し、出勤した。

しかし勤務中も、何ともいえない苦しさが続き、

ほぼ座ったまま、あまり動けなかった。

冗談で「心臓がダメかもしれない」と笑っていた。

ネットでクリニックを探したが、土曜だったので、

休み明け(月曜)に受診することに。

翌日の日曜日は、苦しさも和らぎ、まあ普通に過ごした。

_ 高仲循環器クリニック

2月21日(月)。

午前中に高仲クリニックに電話して予約を取り、

15時30分に受診。

病院に行くこと自体が何十年ぶりで、緊張気味だった。

だけど、綺麗な建物だし、落ち着いた雰囲気。

前日からは、ほぼなんともなかったので、

煙草をやめろとか塩分や脂肪を減らせとか言われるんだろうな、

と、軽い心構えでいたら、

心電図を取った時点で「真野さん、心筋梗塞を発症してますよ」と。

「昨日か今日、死にそうに胸が苦しくならなかった?」

土曜日早朝の、あれがそうだったのだ。うへぇ。

そのあと、右前腕から造影剤を入れてCTスキャンで状態を確認。

高仲クリニックには全国でもまだ珍しい、

64層マルチスキャンのCTがあって、

心電図で判断して拍動と同期しながら撮影できるのだが、

僕の停まりかけた心臓ではうまく同期できず、

かなり時間がかかった。

撮影が終わって再び先生と向かい合ったのは18時すぎ。

_ 症状

左冠動脈前下行枝の途中に、酷い狭窄が見つかった。

幸い、完全に血流が停まってしまったわけではなく、

停まりかけては痙攣を繰り返す状態だったらしい。

まる二日半、私の心臓は瀕死の悲鳴を上げ続けていたのだ。

通常、心筋梗塞は発症60分以内に20%が死亡、

48時間以内に50%が死亡するという。

また、発症から2時間以内に適切な処置が行われない場合、

死を免れても深刻な後遺症(心筋の石灰化等)が。

私の心臓は、発症後60時間もほっとかれた。

_ 医療センターへ

そのまま医療センターに行って、

緊急手術を受けることを勧められた。

高仲先生には「仕事があるから」と反対したが、

「命が危ないって時に言うことじゃない」と諭された。

そんなにヤバイ状態なのか、とそこで初めて認識。

とりあえず三里に電話、取締役にメールで連絡して、

19時ごろ、タクシーで医療センターに。

三里は、自分の車で付いて来た。

_ 救急医療の現場

自分の脚で歩いて受付に行ったのに、

あっという間に寝かされて救急救命患者の扱い。

「ワン、ツー、スリー」で担架からベッドに移される、あれ。

鼻には酸素パイプ、両腕に針が刺され、胸には電極が。

バタバタと説明を受けながら手術室に運び込まれた。


2011-03-02 心筋梗塞の顛末②

_ 手術直前

2/21(月)19時 手術直前のベッド。

各種ケーブルに縛り付けられた僕は、すっかり「患者」の様相。

心配させたくなかったので母さんや佳子には知らせず、

三里に「家族」として付き添ってもらうことに。

事前に手術のリスクなど聞かされ、

三里はけっこう凹んだらしい。(後から知った)

曰く、カテーテルが血管を破ることがある、

血流を一時的に停めるので、

心臓にダメージを残す可能性もある、

造影剤等の投薬で予期せぬ副作用がある、

絶対に安全な手術とはいえない、等々。

この時点の患者本人は別段苦しんでいるわけでもないので

実感が湧かず、興味津々、周囲の状況を観察していた。

インターンらしい若い白衣がたくさん取り巻いていて、

何をするでもなく、処置を受けるボクを見ている。

メモでも取れば?

_ 変な救急患者

歩いて受付に来た心筋梗塞発症の救急患者、

珍しいケースなんだと思った。

心筋梗塞って、救急車で運び込まれるんだよね。

脂汗をかき、死の恐怖に怯えながら。

「救急救命病棟って、どこですか」って

受付に聞く救急患者はいないんだ。

_ 医療ドラマのシーン

仰向けのベッドで廊下を手術室へ運ばれながら、

おそらくこのシチュエーションでなければ

経験できない風景を目にした。

流れ去る天井と、心配そうに見下ろしながら

付いてくる三里の顔。

映画やドラマのシーンをあれこれ連想する。

途中、三里に職場への連絡をいくつか頼む。

この時点では、せいぜい三、四日の入院のつもりだった。

高仲先生がそう言ってたから。

すぐに手術を受けさせるための方便だったらしい。

二週間もかかったじゃん。


2011-03-03 心筋梗塞の顛末③

_ 手術

2/19(月)21時、手術が終了。

右手首の動脈からカテーテルを通し、

左冠動脈前下行枝の狭窄をバルーンで広げ、

ステントを一箇所に留置する手術だった。

_ 痛み

手術中は、手首だけの部分麻酔だった。

正直、辛かった。

鋭い痛みはないが、鈍痛というか、右前腕がずーんと。

「痛くないですか」と聞かれ、「痛いです」と答えると、

部分麻酔を追加されるものの、たいして変わらず。

血管の中を何かが通っていく感覚も、

何ともいえず気持ち悪い。

_ 手術中①

2時間ずっと同じ姿勢なので、

肩や首がこわばり、だんだん痛くなってくる。

時折、造影剤の注入であちこち熱くなるのは面白い経験だが、

とにかく2時間の手術はずっと苦痛の連続だった。

バルーンで血管を拡張するときは、

当然ながら血流が停められるわけだから、

人工的に心筋梗塞を起こしている状態。

地獄の苦しみ。

_ 手術中②

事前に術式の説明は受けているので、

周囲の動きや音で、何をしているかの想像がつく。

タタタタッタタタタッというけたたましい音が、

バルーンを膨らませるコンプレッサーなんだろうな、とか。

途中、多分狭窄部の拡張がうまく行って戻した瞬間だろうけど、

突然、胸がスーッと軽くなった感覚があった。

あとで、「血流が復活した瞬間、心臓がドクッと動いた」と

担当の小林先生から話があった。

_ my half broken heart

我が心臓は、辛抱強かったのだ。

二日半、酸素を待っていたのだ。

よく頑張った。

ケアせずほったらかしですまなかった。


2011-03-04 心筋梗塞の顛末④

_ 手術直後

2/21(月)深夜。手術直後、救急救命室のベッド。

まったく身動きが取れない。

三里が来てくれたが、患者は手術前より元気がない状態。

痛めつけられた感じで、疲れきってしまった。

なんだか、本当に死にそうな気がしていた。

_ ポンコツ

「ボク、ポンコツだった」と漏らす。

ずっと、自分の身体には自信があった。

愛車のPorsche928同様、年式は古いが造りは頑丈で優秀、

細かいパーツにガタは来ても基本性能は新車に負けないぜ、

という気概でやってたのに、

エンジンに相当する心臓がダメだったと判明したので。

_ 結婚

「結婚は待って。お別れも考える必要が」とも。

齢の差のことはお互い了解していたにしても、

心臓に問題があってどうなるかわからないのでは、

一緒に暮らしていく彼女の負担が大きいと考えて。

介助のために結婚、という感じになるのが嫌だった。

三里には「今は治療に専念して」と諭された。

_ 母さんに

実は、「近いうちに結婚するかもしれない」と、

年末に母さんに電話した際、伝えてあった。

昨年の秋ごろから、

僕が実家にろくに帰らないことを三里に叱られていて、

「結婚して、お母さんを呼んで、一緒に暮らそうよ」と

言ってくれていた。

そう遠くない将来、そうするつもりだった。

_ スケジュール

予定ではプロポーズは3月1日、三里の誕生日。

先方の両親に合い、3月末には会社が休みになるから、

そのときに鴨島に帰って母さんに引き合わせる。

そういうスケジュール感だったんだが・・・。

_ 一ヶ月の猶予期間

「誕生日を一ヶ月遅らせて」とお願い。

その間にあれこれ考え直すことに。

とにかく、この心臓がどうなるかが問題だ。

日常生活に支障を来たすようなら、

本当に結婚は諦めて別れるつもりだった。


2011-03-05 心筋梗塞の顛末⑤

_ 私はミイラ

手術後、まる二日間はまるでミイラ。

心臓への負担を減らすため、ほとんど動くことが許されない。

ベッド上で背中を起こす許可がでたのが三日目、

リハビリを進めてトイレまで歩けたのは五日目。

なんとそれまで、大便は我慢していた。

実は、小便できたのも二日目になって初めて。

横になったままで、尿瓶に尿を出すことができなかった。

頭はOKして出そうとするが、体が従わない。

小便できないことが、あんなに辛いものとは思わなかった。

_ ダメージは小さい

歩けるようになるまでの五日間、酷い頭痛に悩まされた。

点滴で打たれている血管拡張の薬のせいか、

あるいは自由に動けないせいか。

首や肩がガチガチに凝っていて、一日中割れるような頭痛。

だけど、肝心の心臓は予後順調だった。

心臓へのダメージは最小限(先端部:心尖だけ)で済んだようで、

後遺症はほとんど気にしなくていいだろう、とのこと。

壊死が進んでしまった場合、心筋は再生しない組織なので、

心室が徐々に拡張しながら石灰化していくそうだ。

おそろしや。

_ 病棟はいい環境じゃない

一般病棟に空きがなく、ずっと救急救命病棟で過ごす。

声がでかくて困る話好きな爺さんがいたり、

病気で性格の捻じ曲がった嫌な奴がいたりと

けっしていい環境とは思えなかった。

ただ、看護士さんはみんな前向きで元気で明るくて、

かつ、綺麗なお嬢さんばかりだったのが救い。


2011-03-07 心筋梗塞の顛末⑥

_ 回復

入院5日目あたりから、元気になった。

頭痛は徐々に治まったし、

リハビリが進んで、室内に限り歩いてOK。

で、心臓以外はもともと健康なわけだし。

_ 退屈

すると、退屈で退屈でしかたがない。

救命病棟の面会時間は午前中1時間だけだから

三里は毎日来てくれるけどすぐ帰っちゃうし。

本を読むのはいいが、あっという間に読み終わってしまう。

PCをWiMaxでネットに接続できて

ネット越しの仕事も可能にはなったが、

薬のせいか、集中力が持続しない。

_ 不満

不満はたくさんあった。

居場所も姿勢も限られているので、あちこち痛くなる。

特に、肩は酷く凝った状態が続いていて辛い。

ずっと風呂に入れないので体が臭うような気がするが、

蒸しタオルで拭く以上のことは許されていない。

朝、夜明けとともに起床するのはかまわないが、

外気を吸えるわけではないので清々しくもない。

早起きしても、一日中、何もすることがない。

昼間、することがなくてウトウトするので、

消灯後はずっと眠れない。

救命病棟なのに、患者同士の話し声がやたらとうるさい。

_ 看護士さん助けて

三度の食事が楽しみなイベントになるが、

メニューは哀しくなるほど簡素。

心電図を取りに来る看護士さんが誰なのかで、

半日の気分が変わったりするくらい、

入院患者は退屈してるんです。

待遇を少し考えてほしい。

_ 山本裕子さん

そういえば、看護士の山本さん、素敵だった。

美人だけど、外見のことじゃなくて。

手術直後の一番不安な夜、担当してくれた。

貴女の落ち着いた優しさに、ボクは救われました。


2011-03-08 心筋梗塞の顛末⑦

_ 痩せた

入院二週間で、体重は6kgほど減。

病院食は不味くて少なくて哀しかった。

塩分や油を控えるのは仕方ないにしても、

せめて食材に凝って素材の美味さを味わわせるくらいの

工夫をしてもらいたいものだ。

_ 患者の身になって

医者も看護士も、手術や入院の経験はないもんね。

患者の立場で感じるのは難しいでしょう。

痛い、苦しい、寂しい、切ない、退屈。

実感としてそれがわかれば、接し方も変わると思うの。

_ 提案

二週間の後半、十日ほどはヒマでしょうがなかったので、

患者の病状別にカルチャースクールのサービスをやったら

けっこう喜ばれるんじゃないか、とか思った。

PCスクールとか、HowTo快眠とか、WhatIsお薬とか。

_ 禁煙

当然だが、煙草はやめることになった。

不思議と無理なくやめられた。

_

髭を伸ばしたら似合うことがわかった。

髭を伸ばした顔は三里のお気に入りになった。

_ リハビリ

15mを5分かけて歩くことから始まって、

200mを4分かけて歩くところまでリハビリ。

普通に歩くより少し遅めぐらいの感覚。

もっと速く長く歩ける気もするが、

最終日に許可が出たシャワーでは、

頻脈が出そうになって慌てた。

無理は禁物。

_ 退院

3月8日(火)、正午に退院。

三里の車で送ってもらい、

途中「風変里家」で二週間ぶりの珈琲を堪能。

「ゆっくり歩く」を心がけて、自宅へ戻る。

会社には、あと二週間ほどリハビリ期間をもらうと連絡。

「無理をしないように」と。まぁ、そうだよな。

_ 治療費

入院の費用は、後日郵送で請求書が送られてきた。

300万円近くかかっており、

健康保険の上限を決めるサービスのおかげで、

20万円ばかりで済んでいた。


2011-03-11 東日本が大変なことに

_ リハビリ

退院後は、毎日少しずつ歩く程度の、

緩やかなリハビリを心がけていた。

ゆっくりペースアップすれば

少々汗ばむくらいの運動でも問題ないのだが、

気温の急低下には妙に弱い。

息が荒れ、心臓がバクバクする。

まだ夜は寒いので要注意。

_ 東日本大震災

午後、何気なくテレビをつけたら。

東北地方が大変なことに。

津波の生々しい映像を観ながら、

これは未曾有の大地震だと感じる。

死者は数万人になると直感。

町が飲み込まれてるんだもの。

_ こっちはどうだ

東海地方は怖いと思っていたが、

あっちで先に。

プレートが違うとはいえ、

このズレがトリガーになってしまうのでは。

_ 三里は知らなかった

帰宅した三里は、この地震を知らなかった。

秋田の親類に電話したがつながらないとのこと。

きっとNTTもパンクしているんだろう。


2011-03-12 母さんから電話

_ 母さんから電話

夜になって、母さんから電話。

地震でなんともないかと安否を気遣う内容だった。

こっちはまったく問題ないことと、

予定通り事後報告で、心筋梗塞の手術を伝えた。

_ 近いうちに

三里のことも気にしていたので、

「近いうちに連れて行くから」と。

_ 保険のこと

満期になるボク名義の保険があって、

100万円おりるとか。

「ほしいで?」というから、

そりゃまぁ、もらえるならもらう、と。

「ほな手続きしとくわ」と言って切れる。

なんだか、よくわからない。

相変わらず他人のことばかり気にして、せっかちな母。


2011-03-14 母さんから再び電話

_ 実印が必要とか

夜、再び母さんから電話があった。

一昨日の電話で話した保険が、

僕が僕自身にかけた形式になっている。

本人の実印が必要になる。

書類を取り寄せるのに一週間くらいかかりそうだ。

手に入ったら送るから、

あとは自分で手続きしろ、と。

_ はーい、と返事して切った。

_ ボクは役立たずだ

テレビでは、連日悲惨な報道が続く。

各地の惨状が明らかになり、

居ても立ってもいられないような焦燥感に苛まれる。

自分に何かできないか考えるが、

そもそも自分の命が危ない状況であることを

あらためて思い出す。

_ 僕は、役立たずだ。


2011-03-17 訃報

_ 訃報

朝9時。

携帯に実家からの電話。

表示を見た瞬間、嫌な予感がした。

粟飯原さん(従業員)からで、

出勤したら母が倒れており、既にこと切れていたと。

_ わからない

頭の中が真っ白になった。

病院と警察、妹や伯父への連絡をお願いし

すぐに行くと伝えて電話を切ったが、

何をどうすればいいのか、考えがまとまらない。

のろのろと動き、

荷造りして出かける準備が整ったのは昼前だった。

_ 鴨島へ

郷里の鴨島へ向かう新幹線の中でも、

頭の中は同じところをグルグル回るばかり。

現実感がなく、行動している自分が他人のよう。

初めて岡山経由で四国へ渡った。

子どもの頃から何度も夢に出てきた、

「見知らぬ駅」の風景が高松駅だったことを知り、驚く。

_ 到着

19時ごろ、鴨島駅に到着。

俊ちゃんの奥さん、君枝さんが迎えに来てくれていた。

母の遺体は三倉屋会館に移され、

親類は既にそちらに集まっているとのこと。

通夜の手配は、伯父たちが済ませてくれていた。

_ 通夜

棺桶の中の母の顔を見た瞬間、

涙とともに感情が溢れた。

間に合わなかった自分。

つれない態度だった自分。

泣きながら、詫び続けた。

_ ごめんなさい

伯母が「尚己が来たら、欣子さんが笑顔になった」と。

叔父たちは口々に「欣子は尚己の自慢ばかりしていた」と。

そういう話を聞いて、

無愛想だった自分の不甲斐なさ申し訳なさが思い返され、

また何度も泣く。

夜はお棺のそばで佳子と哲暢叔父の三人で寝たが、

抜け出してロビーで泣いた。

_ 脳動脈瘤

母は、

ヨガの集まりから友人と一緒に22時過ぎに帰宅し、

そのまま店先で他界したらしい。

このところ夜の冷え込みが酷かったので、

それが原因だろうと伯父伯母が話していた。

警察は死因を心不全としたそうだが、

心不全は死因を特定できないときの言い回し。

昨年末から脳動脈瘤が見つかったことを話していたので、

その破裂だろう。

_ 綺麗な顔

穏やかで綺麗な死に顔なので、

自分が死んだことにも気付かなかったのではないか、

苦しまずに逝ったのではないかと、望みをこめて考える。

78歳だった。

_ ごめんなさい

母さん。

間に合わなくてごめん。

無愛想な息子でごめん。


2011-03-18 葬儀

_ 慈雲院春曉妙欣大姉

14時から葬儀。

午前中は、町を歩いたり実家に戻って部屋を見たりして過ごす。

11時ごろから、あれこれと準備が始まり、

あまり悲しんでいる余裕もないような状況。

弔電の順番なんかどうでもいいと思うが、

そうもいかない。

お坊さんから、母の戒名(法名)が決まったと教わる。

慈雲院春曉妙欣大姉。

立派で美しいが、

それが母を意味するのだとは、心が受け付けない。

受付が始まり、予定を大きく上回る百数十名の参列者。

母が人気者だったのを思い知る。

受付や香典の整理は、俊ちゃんが中心になって、

進めてくれた。感謝。

_ 葬儀

葬儀は静かに進む。

三倉屋の人が細かく指示を出してくれるので、

僕は何も考えず従っているだけ。

読経の声を聞いているうちに、

また涙が溢れてくる。

喪主として毅然としていようと思っていたが、

こぼれる涙を止める術はなかった。

最後の挨拶では、

「母は、自分のことはいつも後回しで、他人のことばかり心配し、

せっかちで、ポジティブで、明るい人だった。

月末には嫁を連れて来て、一緒に暮らそうと話すつもりだった。

無愛想で親不孝な息子で申し訳なかったが、

もう少しだけ、待っていてほしかった。

慌てて逝ってしまったのは母らしいが、

間に合わなかったことが無念でならない。」

と話した。

後で、叔父たちに「いい話だった」と褒められた。

_ 斎場へ

斎場へは、僕が位牌、妹が遺影を持つ。

伯父が最年長者として式を仕切るつもりだったのか、

しきりに挨拶をしたがっていたので、

斎場へ向かうバスの前での挨拶は任せることにした。

僕は先にバスに乗ったので、何を話したのか知らない。

_ 火葬炉

斎場。いくつかの手続きの後、火葬炉に入っていくお棺。

現実感がない。現実感がないが、涙が止まらない。

待っている間、叔父たちや従兄弟たちと話す。

他愛もない思い出話で笑ったりしながら、

誰もが時折目に涙を溜めて黙り込む。

母が、兄弟たちにもこんなに愛されていたのだと、

あらためて感じる。

_ お骨というモノ

お骨を拾う段になって、

頭が混乱する。

純然たる「モノ」になってしまった母。

説明を聞きながら骨を見て、

「あれが母さんの大腿骨、あれが肩の関節」という状況に、

どうしても馴染めない違和感があった。

靖久叔父が「食べさせてくれ」と名乗り出て、骨を齧る。

少し驚いたが、そういう風習を聞いたことがあるようにも思う。

途中、頭蓋骨の内側に褐色の汚れがあるのを見て、

担当者が「脳内に大量の出血があったようです」と説明。

やはり、脳溢血だった。母は苦しまずに逝ったのだ。

佳子と目を合わせ、少しほっとした。

独りっきりの寒い夜、母さんが苦しみながら死んだなんて、

考えたくなかった。

_ ごめんな

実家に帰り、店の片隅に作った即席の仏壇に祭って、

あらためて母さんの遺影と向かい合う。

「ごめんな」という詫びの言葉しか出てこなかった。

何度も何度も謝り、静かに泣いた。

_ 母さんの部屋

夜、母さんの部屋、母さんの寝具で眠る。

小さく、寒く、暗く、居心地の悪い部屋。

短歌の草稿や携帯電話、

カレンダーの書き込みや走り書きのメモなどに囲まれて、

母さんが過ごした独りの夜を実感する。

さぞ寂しかっただろうと、あらためて泣いた。

何度も何度も泣いた。

もう、何もしてあげられなくなったことが悔しくて

本当に悔しくて仕方がなかった。

_ 母さん。母さん。ごめんな。ほんまに、ごめんな。


2011-03-19 遺言書

_ 僕と佳子に

母さんの書棚を見ていて、遺言書を見つけた。

土地の評価証と一緒に、僕と佳子に向けた手紙の形式で。

5年ほど前に書いたものらしい。

_ 遺言書

優しくしてくれてありがとう。

もし私が入院するようなことになっても、

延命措置はしないで、痛みを和らげる処置だけしてください。

私は充分に生きました。思い残すことはありません。

_ ごめんな

涙が止まらない。

佳子と二人で、しばらく何も話さずに泣いた。

母さん。

優しくなんてしてないよ。

もっともっと、してあげたいことがたくさんあったのに。

もう少しだけ、待っててほしかったよ。

ごめんな。


2011-03-21 役立たず

_ 母さんのモノ

家の中を整理し始めなければならない。

もったいなくて捨てることができなかった母さん。

家中の棚という棚、引き出しという引き出し、

置ける場所には置けるだけ、モノが溢れてる。

_ 捨てられない

ガラクタばかりだけど、

ひとつひとつに、母さんの気持ちが宿っている気がして、

捨てるに忍びない。

_ 母さん、これ、どうすればいい?

_ 僕は役立たず

どっちにしても僕は息切れして役立たずなので、

佳子に任せて帰ることにした。

ごめんな、佳子。

_ 帰路

徳島から高速バスに乗り、淡路島・大阪経由で帰る。

往路より1時間ほど早い。

バスでも新幹線でも、あれこれ思い出して泣く。


2011-03-22 復職

_ 出勤

今日から出勤することにした。

来週は春期休暇だし、再度帰省するつもりなので

とりあえず一週間だけだが。

_ 家にいるとダメ

三里は「まだ無理しないほうが」と

気遣ってくれるが、家に独りでいると、

ずっと泣いてばかりいることになりそうで。

_ 母さん。こんなに辛いとは思わなかったよ。


2011-03-23 喪失感と悔恨

_ 喪失の違和感

何をしても、何を見ても、母さんを思い出して

涙が溢れてしまう。

もう母さんがこの世にいないということが、

どうしても心の中に納まらない。

_ 負い目

間に合わなかったと、

何もできなかったと、

自分を責め続けてしまう。

_ ごめんな

悔やみ、悲しみ続けることを

母さんは望んでいないと、

三里も佳子も言ってくれるけれど。

母さんはすべて許してくれるし、

何も責めていなかっただろうけど。

でも、僕は。

_ 胸が、苦しい。


2011-03-24 感情の器

_ 感情が溢れること

昔、猪野さんが感情の器の話をしていた。

入れ物が浅い人間は、すぐ泣くしすぐ怒る。

感情が簡単に溢れてしまうと。

_ 僕の感情の器

僕は感情を表に出すのが苦手で、

意図して叱ったり笑ったりする以外、

滅多に大声を出すこともない。

感情の器が深いんだと思っていた。

_ 堰き止められない

今は、溢れっぱなし。

勤務中にも、ふとしたことで涙がこぼれ、

それがきっかけになって感情が溢れ出す。

トイレに駆け込んで泣く。

_ どうにもならない。


2011-03-26 mano.cat の準備

_ このサイト

mano.cat というドメインを取得。

.catドメインの規定で、

カタルーニャの文化を紹介せねばならない。

トップページではガウディの建築物紹介をやろうと思う。

_ このブログ

三里が結婚を望むようになり、

心筋梗塞を発症し、

東日本が地震で大変なことになり、

そして突然の母さんの訃報。

僕にとって2011年の春は大変な時期だった。

振り返り、顛末を記述することにした。

3月初日からのログは、

22日以降に書いていた手記から転記。


2011-03-30 二七忌

_ 二七忌

3/29の母の二七忌のため、三里を伴い鴨島へ。

もともとは彼女を母に引き合わせるため、

会社が休みになるこの時期に帰るつもりだった。

あらためて、間に合わなかったことを悔やむ。

_ →神戸→鴨島

28日に浜松を発ち、その日は神戸で異人館など観光。

三里が、僕を元気付けようとしきりにはしゃぐ。

ありがとうね。

オークラに一泊して、翌朝早く鴨島へ。

車(928)で行ったので自由が利く点はいいが、

運転は疲れる。片道500kmだから。

実家で三里を佳子に引き合わせ、

形見分けの着物とか指輪とかを相談。

_ 伯父宅で法要

11時、伯父の家に集まり

三里を伯父伯母に紹介してから法要。

初めてお経を詠むが、

お坊さんから「詠まれた事がおありなんですね」と。

読経の調子が他の宗派の音に聞こえたそうだ。

いえ、初めてなんですが。

三里は

「祭壇側の目からだけ涙が出た。

お母さんに会えたのかなぁ。」とか言う。

本当に、そうであってほしい。

_ 帰りは大阪経由

午後、三人で市役所に行ったり食事をしたり。

夕方、鴨島を後にした。

大阪で美味しいものでも食べて帰ろうかと、

徳島へ向かう途中のインターネットカフェで

三里が大阪のホテルを予約したが、

これが盛り場の真っ只中で場所がわからず、

人ごみの中をでかい車で右往左往。

やっと辿り着いたが駐車場がわからずまた右往左往。

あとで「私も知らないのに問い詰めた」と三里がむくれる。

だって、予約したのはきみだし、

ホテルに行って駐車場の場所を聞いてきたのもきみだし。

でもまあ、夜は仲直りしてから焼肉。

_ 帰路

一泊後、30日は道頓堀界隈で食べ歩きして、

海遊館に行って、遊覧船に乗って。

浜松に戻ったのは夜の7時過ぎになった。

_ 帰る場所

三里は神戸を気に入ったようで、

「また連れてってね」と。

また、実家を処分する佳子との話を聞いていて、

「こんど帰ったときはホテルに泊まるの?」と。

いや、鴨島は「帰る」場所じゃなくなったんだよ。

母が住む家はもうないことを再認識。

_ 帰る場所は

母さん、僕が帰る場所は?

いつか、僕も母さんの傍に行けるんでしょうか。

もしそうなら、それまで待っていてください。

そんなに先の話じゃないだろうから、

それまでは、僕と佳子と三里を見守ってください。

_ 母さん。

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_ とち [おーい、生きてるか。わしは変わりません。おばちゃんが乗っていた軽自動車。とりあえずウチの二台目として昨日車検しました..]


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